バランスの仕組み
ひと言で言うと
バランスは一つの感覚ではありません。目、耳の奥、体の三か所から届く情報を混ぜて作ります。氷の上では、その混ぜ方を変えることになります。
正しくやる
採点する側の定義から見ます。ISUのコンポーネントのチャートには、意外なことが書かれています。バランスは独立した項目ではありません。 スケーティングスキルの3番目の基準は「バランスとグライド(Balance & glide)」という一つの箱。中身は、刃が摩擦なく氷を滑る能力と、ブレードの上の平衡(equilibrium over the blade)があって刃と動きがコントロールされること。
体ではなく、刃との関係で定義されています。続きにはこうあります。「バランス、コントロール、そして刃の摩擦の少なさによって、スピードが維持される」。成果はスピードとして現れる。ふらつかないことではなく、速さが落ちないことです。
Skate Canadaの評価シートも同じ構造です。STAR 2(2023年8月版)では「エッジの質」の定義が「バランス、コントロール、エッジの深さ」。単独で測られず、エッジの中に入っています。上級のSTAR 8(2019年6月版)では「バランス、コントロール、体の傾き、エッジの深さ」。バランスが傾きと結びつけられていきます。
採点する側は、バランスを「じっと立てること」として扱っていません。
では体の側では何が起きているのか。姿勢制御の研究では、立っていることを支える情報源を三つに分けます。視覚(見えている景色から自分の動きを知る)、前庭(耳の奥で頭の傾きと回転を知る)、体性感覚(足裏の圧、関節の角度、筋肉の張り)。
大事なのは、混ぜる比率が決まっていないことです。Age and Ageing誌に載ったFay Horakの2006年の総説は、要旨でこう書いています。体性感覚・前庭・視覚からの感覚情報は統合され、それぞれの入力に置かれる相対的な重みは、運動課題の目標と環境の文脈によって決まる。
固定の配分ではなく状況で変わる。この切り替えを、研究では感覚の重みづけ(sensory reweighting)と呼びます。
氷の上の話になります。スケート靴を履くと何が起きるか。足首は硬い革とベロで固められ、足裏は厚いソールに覆われ、床に触れる部分はブレード1本になります。足裏と足首から届く情報が減ります。視覚と前庭は靴を履いても変わりません。
ただし同時に、感覚とは別のことも起きます。支持面はブレード1本に縮み、足首を固めれば足首で立て直す動きが封じられ、靴の厚みで重心が上がる。情報が減ることと、立て直す手段が減ることが同時に起きています。
その差を数字で見た研究があります。2004年にカナダで行われた試験で、女子フィギュアスケーター44名の圧力中心(体重が床を押す点)の移動距離が、条件を変えて測られました。距離が長いほど揺れています。
裸足で目を開けて片足立ちをしたとき、この距離は63cm前後。目を閉じると126cm前後で、約2倍です。ここまでは想像がつきます。
ところがスケート靴を履いて、目を開けて片足立ちをしたときは410〜436cm。裸足で目を開けたときの6.5〜7倍でした。
目を閉じるより、靴を履くほうがはるかに揺れます。条件は正確に書いておきます。靴の測定はブレードガード(刃に付ける硬いプラスチックのカバー)を付け、陸のフォースプレート上で行われました。氷の上ではありません。この研究の目的は訓練の前後を比べることで、条件どうしを直接比べる検定はしていません。並んでいた数字をこちらが並べて見ているだけです。
しかも姿勢の指定が違います。裸足は「反対の膝を90度に曲げ、腕を胸の前で組む」。靴は「腕を広げてよく、反対の脚は自分で選んだ位置でよい」。論文はこの倍率の理由を論じていません。 感覚が減ったぶんも、支持面が狭くなったぶんも、姿勢の指定が違うぶんも混ざっています。
それでも桁が違います。氷のバランスを陸の延長で考えないほうがいい、という話にはなります。
同じ研究には、もう一つ効く発見があります。参加者は2つの群に分かれ、4週間の陸上トレーニングをしました(45名が登録し、44名が終えています)。片方はバランスを崩す課題を積む神経筋トレーニング、もう片方は基礎的な運動です。
差が出たのは2条件だけです。 目を閉じた着地姿勢(21.0%の改善)と、スケート靴を履いた片足立ち(16.7%の改善)。裸足で目を開けて片足立ちする条件では、両群に差がありませんでした。
易しい条件では、練習の成果が見えませんでした。
理由は論文自身が書いています。参加者は平均12年のスケート経験があり、易しいテストでは訓練前から「非常に高い水準にあった」。天井に張り付いていたから差が出ない、という説明です。そして続けてこう書きます。「易しいテストでの改善は、もともとの水準が低い集団のほうが観察しやすいかもしれない」。
つまり「易しい条件では誰にも差が出ない」のではなく、上級者では易しい条件が測定として役に立たないという話です。習い始めなら裸足の片足立ちでも変化は見えるはずです。逆に、長く滑っている人が裸足で目を開けて立てるのを見て「バランスは大丈夫」と判断すると、いちばん差の出ない測り方を選んだことになります。

練習として何をするか。目を閉じるか、靴を履くか、両方やる。この研究が主要な評価項目に選んだのは目を閉じた着地で、理由も書かれています。「神経筋系にとって最も難しく、この競技に最も機能的に関係があると考えられたため」。
バランスは保つものではないという指摘もあります。オギルヴィーの入門書『フィギュアスケートの基礎』は、最初の滑走をこう教えます。「押す、揃える、休止」と心の中で唱える。休止のあいだは両足が氷の上にある。理由も書いてあります。これは押したあとに平衡を回復するのを助ける。 そして「練習を重ねると、休止はどんどん短くなる」。
短くなるとは書いてありますが、なくなるとは書いていません。崩れて、戻る。戻る時間が縮むことが上達です。
突き詰める
足裏から届いている情報とは、具体的に何なのか。
Journal of Neurophysiology誌の2018年の総説が、足裏の皮膚の受容器を単一神経線維の記録から整理しています。低い閾値で反応する機械受容器は4種類。刺激が続いたときに反応が消えるか続くか(速順応FA/遅順応SA)と、受け持つ範囲の広さ(type I/type II)の組み合わせです。
集めた足裏の神経線維は364本。最も多いのはFAIの184本(51%)で、閾値は平均1.32グラム。1グラムほどの押しに反応します。
面白いのは、受け持つ範囲の広さです。type Iの受容野は手のひらでは約12平方ミリなのに、足裏では約78平方ミリ。type IIでは手のひら約88平方ミリに対して足裏約560平方ミリ。足裏は手のひらより、はるかに粗い解像度で世界を見ています。
もともと粗い。そこにソールとブレードが入る。氷の上で足裏から届く情報がどれだけ残るかを実測した研究は、探した範囲では見つかりませんでした。
ここまで来ると、「スケーターはバランスがいい」という言い方が怪しくなります。
米国連盟の測定会で、フィギュアスケーター358名にBESSという静止バランスのテストを行った2023年の研究があります。両足・片足・タンデム(前後に足を並べる)の3つの立ち方を、硬い床と柔らかいフォームで行う6条件。どれも裸足で、しかも目を閉じて20秒です。
種目で結果が割れました。アイスダンサーは両足でフォームに立つ条件ではシングルとペアより誤りが多く、ところが片足でフォームに立つ条件ではシングルより誤りが少なかった。硬い床のタンデムでは、アイスダンスとペアがシングルより多い。条件によって順位が入れ替わります。
注目したいのは、両足で硬い床に立つ条件です。目を閉じているのに、どの種目も誤りがほぼゼロでした(シングル0.01、ペア0.00、アイスダンス0.02)。論文は率直に書いています。この易しい最初の姿勢は、姿勢の安定性に十分な難しさを与えていないかもしれない。
これは前の節への補正になります。目を閉じることは、それだけでは難しさになりません。 両足で硬い床なら、視覚を切っても揺れない。視覚が効くのは、支持面か姿勢が先に厳しくなっているときです。「感覚を削る」と「視覚を切る」は同じではありません。
同じ論文は限界もこう書きます。裸足でも靴でも、BESSは「スケート靴を履いて氷の上でどうバランスを取っているかを考慮していない」。
裏が取れなかったことを書いておきます。
姿勢制御の解説では「体性感覚70%、前庭20%、視覚10%」という配分がよく引用されます。帰属先はHorakの2006年の総説やPeterkaの2002年の論文とされますが、どちらも本文が有料で読めず、原文にこの数字があるかを確認できませんでした。Horakの要旨にあるのは数字ではなく「重みは課題と環境で決まる」という記述のほうです。だからこの記事では配分の数字を使っていません。
氷の上で姿勢の揺れを実測した研究も、本文まで辿れたものがありません。氷上でインソールの効果を測った2016年の研究は要旨だけ確認できましたが、使っていません。
この記事で扱った研究は、すべて陸の上の測定です。氷の上で同じになるかは確かめられていません。
バランスを「感覚」と呼ぶと、生まれつきのものに聞こえます。実際に起きているのは、届いている複数の情報から、いま信用できるものを選び直す作業でした。氷の上ではその選択が陸と違う。そして選び直す力がついたかどうかは、情報を削った条件でしか測れません。
参考文献
- ISU「Program Components」チャート(2024年7月版)
- Skate Canada Skills Assessment STAR 2(2023年8月版)
- Skate Canada Skills Assessment STAR 8(2019年6月版)
- Fay B. Horak「Postural orientation and equilibrium」(Age and Ageing 35 Suppl 2:ii7-ii11, 2006)
- Júnior et al.「The Differentiation of Self-Motion From External Motion Is a Prerequisite for Postural Control」(Front. Neurol. 13:697739, 2022)
- Strzalkowski et al.「Cutaneous afferent innervation of the human foot sole」(J Neurophysiol 120:1233-1246, 2018)
- Kovacs et al.「Effect of Training on Postural Control in Figure Skaters」(Clin J Sport Med 14:215-224, 2004)
- Mangum et al.「Balance Error Scoring System Performance Differences in Figure Skaters Based on Discipline」(Int J Sports Phys Ther 18:4, 2023)
- Р.Огилви『Азы фигурного катания』(tulup.ru ロシア語訳)第1章